引きこもりと言うと
何だかネガティブなイメージが強いですが
私はとても正常な反応だと感じています。
むしろ気づきを深め自己を成長させるチャンスになります。
そもそも症状と言われるものは
病気、精神疾患、障害などの前提に必要な一つの定義です。
今の社会的な要求、要請に答えられない行為を
反社会的行動として診断名をつけたものです。
少し冷静に考えれば
その病気の実態は本来はなかったことが想像できると思います。
例えば
多動性障害(ADHD)と言われる人は、
私の幼少期には存在しませんでした。
調子乗り、として「クラスの面白い奴」の座を勝ち取り
輝かしい奴にすら見えていました。
引きこもり、も同じです。
内気で真面目であり、ふと口を開くと
人が知らない世界を語る老賢者の様に見えていました。
もっと言えば
現代で障害者と言われる人を歴史で振りかえると
「神の子」と言われている時代さえありました。
別の文化や民族には適応しないものも沢山ありますよね。
そういう意味では
症状や病気は事実ではなく
その人が暮らす社会的な要求にとっては、障害や疾患として診断されるもの。という事になります。
雑に言うと、社会が基準値(標準値)を狭くし続けた結果
どんどんはみ出た物が、排除すべきもの、になってしまっている。
医療でも基準値変えると病人が増える。という血圧などの話は有名ですね。
心の苦痛とは、
本来のその人の自然な感じ方、振る舞い方が
狭い要求の圧力の中では、
もう自分が守れない、保てないよ。という状態の事。
症状とは
その要求には答えられない、答えたくない。それは本来の自分を壊すことになる。
という極自然な抵抗です。
その時に
社会の価値観をある程度鵜呑み(introduction)出来る大半の人は
自分の他人とのズレを「悪い物」として呑み込み、社会的なマスクをつけて生きる事が出来ます。
多くの人がそうだと思います。
無意識では不満を持ちながらも、お酒に頼ったり適当に憂さ晴らしをすれば
何とかやっていけるかもしれません。
しかし、自分を大切にしている人はそう簡単にはいきません。
簡単に自分の世界を上塗りすることは自分を殺すことになるからです。
むしろ心の意志の強さがゆえに、自分の大切な世界を簡単に触れさせたくない。
その時に「引きこもる」という一つの表現形態をとることがあります。
まさに沈黙の戦いです。
※破壊的になる人もいますが根本は同じです。
一般的にはその「引きこもる」意志の強さを、重い病気や、問題として捉えますが
実際は、誰よりも真の心を大切に生きているだけだという事です。
こういう状況の中でその行為を
病気や症状として排除しようとすることは、その人を攻撃し、守りを強固しろと言っているようなものです。
そうではなく
その真の心の表現が出来る場を生み出していく方がよっぽど社会の可能性は広がります。
社会の要求に答える訓練をすることは、むしろ内面的には悪化を望むようなものです。
ですから、
心身の健康をサポートするためには
社会適応のための努力はいったん脇に置くべきだと私は考えていますし
実際支援をしていた時代に最も力を入れて取り組み、最も効果をあげてきたことでもあります。
大抵来られる方は、自分は問題だと思い込んでいます。
治すべきことを主張し、治療を求めています。
心の分野が疾病モデル、医療モデルになってきているのを感じます。
そんな方であっても、成長モデル、健康モデルでみると
自分のコアを表現し、気づきが進み、問題は問題でなくなっていきます。
自分はただ健康な表現を抑えていただけだったと実感していきます。
真の心の健康を感じ、体験した人は
むしろ無理をせず、社会には適当に仮面をつけて上手くやっていく事が出来ています。
自分の感じ方、振る舞いを大切にし、社会に向き合う力が十分備わっていくからです。
健康とはシンプルな事です。
自分に気づき、表現し、今を生き続ける事。
症状や問題を分析、治療する世界は、実際の健康とは離れた机上の空論であることが多いと感じる事があります。
躁的防衛を強めるばかりか、健康に生きようとする本来の力を否定し、沈静、抑圧を高めてしまいます。
ですから
治そうとして、苦しみ続けている方は
自分を治そうとすることを一度やめてみてください。
自分を否定せず、自分の真の心を感じるチャンスとして受け入れてみる事から始めてみて下さい。
周りで見守る方も、
表出している症状に問題意識を持ち、治す対象にするのではなく
その表現の真の意味を引き出す関わりをしていく事が大切です。