「自分」が何であるかがわからないのに、
何をするのか、どうしたいのか、などと考えてもわかるはずがありません。
空腹かどうかを知らずに、何を食べるのかを考え続けているようなものです。
理想の未来を描く前に、「自分」を理解し、体験することが重要です。
自分とは一つの作品です。
白紙で生まれた赤ん坊が、
親や社会の価値感を取り入れたり、抵抗しながら作り上げてきた
粘土細工の様なものです。
その作品に費やす時間と労力が大きければ大きいほど、自分はそれに融合していきます。
一つの作品に融合すると、いつしかそれが全ての自分だと錯覚し、失う事をも恐れ始めます。
これが生きづらさになります。
その自分は単なる一つの作品であり、
その自分を振舞うためだけの映画のストーリーを生きているだけに過ぎません。
作品に融合し「何者でもなかった本来の私」に気づく事すら出来なくなっているのです。
まさに、映画マトリックスの世界感です。
本来、人間は「自分」を超越した存在です。
様々な文脈で語らるように、自分ストーリーの枠組みの外の世界です。
思考していない赤ん坊や、
時間や空間にとらわれない障害者が見ている世界観もそうではないかと感じます。
つまり言い換えれば「自分」は思考です。
ストーリーを遂行するために
他者の価値観を取り入れ
比較し、解析し、分断しようとする機能です。
思考は今の「何者でもない本来の私」に抵抗し、あるべき姿を想像させます。
「今より〇〇の方良い」
「〇〇が幸せになる方法だ」
「もっと勉強した方が良いよ」
など思考の中で作業し、映画のストーリーの中でもがくことを求めます。
作り上げた偽物の自分を演じることは
思考にとっては楽なことです。
故障していても乗り慣れた車を手放せないようなものだからです。
ですから
多くの人が思考の自分に支配され、
楽で不満足な生き方を選び
一部の人だけが悟りに至るような構造が古くからあるのです。
本来の自己を抑圧すると、過度な投影を起こします。
思考で捉えられないものを排除するため
様々な疑念を持ち、他者との対立を生みます。
言葉による思考は、そもそも対立する事だからです。
本来の自分とは、思考を離れた時、
身体や感覚を感じる事で体験していく事が出来ます。
うるさい思考をとめ、頭の渋滞を無くすだけではなく
身体を解放し、滞っていたエネルギーを流すことも同時に行う必要があります。
思考で語るスピリチュアルな世界観とは違います。
ヨガでもハタヨガのアーサナなどで身体を調えた段階を経て
瞑想を中心とするラージャヨガへ移行するプロセスを踏みます。
身体の解放が起こった先に、自分を超えた自分を感じる瞑想を行うわけです。
ヨガと同じように
身体心理療法でも、身体のエネルギーブロックを様々なアプローチで溶かしていきます。
エネルギーブロックがかかる場所はヨガのチャクラとほぼ連動しています。
実際、世界的に広めたローエンによるバイオエナジェティクスは動的なヨガなどとも呼ばれています。
その他のアプローチを含め
sonomamaのセラピーは
自分劇場に気づき
身体を固めて作った仮の粘土細工を元に戻すことで
本来の姿を感じていくワークを中心に行います。
今の自分劇場をやめた先にスペースを感じると、
「何者でもない自分」と「何にでもなれる感覚」を体験することが出来ます。
回復していく方を見ていると
「根拠なき自信を持つ幼い子供」
のようにも見えてきます。
そういう意味では「自分」という大人劇場一度やめていく時間と言えるかもしれません。