解放したければ強度行動障害を見よ

2025.01.14

過去10年ほど「重度の知的障害を伴う自閉症」と言われる方達と関わっていました。

強度行動障害と言われる、
破壊的、多動、強いこだわりなどを持つ方を積極的に受け入れる最後の砦の様な場所でした。

事業の特性上、本人の意志とは関係なく連れてこられる場合も多くあるので
大人の本気の抵抗や拒否と向き合う事は日常です。

こういう現場は、机上の空論ではどうこう出来るレベルではありません。
寧ろこの矛盾した状況に自分がどう向き合うのかが支援です。

例えば、
衝動的にどうしても外を裸で歩きたくなった人。
単なる抑制や誤魔化しは通用しません。
私を制圧してでもそれをやり遂げようとすることは容易に想像ができます。
社会通念と本人の意志や意味を汲み取ることへの葛藤です。
この状況で、偏った価値観を持たずにとれる支援とは何なのか。
あなたならどうしますか?

私の場合、考える間もなく、
支援者である私が先に裸になろうとする選択をしていました。
正しさやリスクではなく、
ただ相手の体験を通して何かを感じようとしていたのかもしれません。

それは、お互いの関係の中の繋がりや共鳴を生み、
言葉の意味にはなりえない真のコミュニケーションとして機能していきます。
そうやって何かが繋がると何事もなかったように元の穏やかな状況に戻っていく。

こういう日常の中で、時に全力でぶつかり、共に笑い、そんなプロセスを終えて、気づくといつの日か心が通っていく。
それが本当の支援だとつくづく感じさせられた貴重な経験ばかりです。

そんな彼らが教えてくれたことは、自分を生き、表現し、自分の世界を行使する力です。

私は現在、
ゲシュタルト療法、ボディーサイコセラピーから得たエッセンスを元にセラピーを行っていますが
本当の根拠は、心理学的な事ではなく、自閉症の方との関わりで体験したことです。

クライアントの方と解放系のワークをしていると、
その解放の表現形態のほとんどが、強度行動障害と呼ばれた彼らとの日常の光景に重なります。

自由に身体を動かし、出したい声をあげ、泣きたいだけ涙を流す。
心の底から湧き出る、動き、声、感情の全てが彼らを彷彿とさせます。

いつの日か、自分が自然とやっているアプローチは
彼らの活き活きとしたその表現そのものを目指しているものだったと気づきました。

言葉がなくとも、自分は自分だと跳ね返すその力と意志は、
私からみれば羨ましいほど人間らしい在り方でしたから。

バカにされても、どれだけ生き方や振る舞い方を他人に決められても、
必ず誰よりも自分を生きている。見習うべきは、私達の方かもしれません。

私はぶつかりながらも彼らの表現の自由を認め続け、数年経った頃には、
事業所から問題行動と呼ばれる過激な表現は一切といっていいほどなくなりました。

まあ、私も問題児のように捉えられていたと思いますがww
約十年、やることはやったとは感じています。

今彼らの言葉が聴けるなら「ようやく気づいたか」と言われそうですね。

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